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2006年10月

子供に何を伝えたらよいのか

子供を産もうと決心した(と言っても自分が産むわけではないのですが)時にはあんまり考えていなかったのですが、いざ産まれてみると今の時代には子育てをするのに不安な要素が幾つもあることが分かってきました。例えば、いじめ、不登校、引きこもりなどの学校の問題、未成年の誘拐、通り魔事件などの社会の問題、さらには食物に含まれる添加物、農薬などの食生活の問題…色々挙げたらきりがありません。自分たちはそういった問題だらけの社会の中で生きてきているわけですが、無防備な子供たちにとってはもっと生きるのがきついように思えてきます。そんな中、どうやって子供を守るのか、心配しても心配しすぎと言うことがないくらい心配してしまいます。

子供が世間の波風に堪えて強く生きるためには、子供に何を伝えたらよいのでしょうか。そんなことも時々考えてしまいます。子供に対して見知らぬ大人を信用するな、というのは不要な心配を与えてしまうようにも思います。しかし、現実に自分の身を守るためにはそんな注意もしないといけません。同様に、大人がルールを守らないことに対して時に見て見ぬふりをしないといけないことも教える必要があるのでしょうか。できたら子供にはルールをできるだけ守ることを教えたいのですが、そうすると赤信号をわたる大人が目の前にいたときにどんなことを言えばいいのか、悩んでしまいます。

一方で、子供が小さいうちに教えておきたいこともたくさんあります。これから生活をする上で守って欲しいこととか、何かを考えるときに拠り所となるべきこととか、夢を持って生活することとか、挙げていくときりがありません。それは自分がこの世に生きた証を子供に伝えることにつながるように思います。例え自分が社会の中で無名の存在であっても、色んなことを考えていた人間が確かにいた、ということを子供に残しておきたいのです。子供にとっては迷惑なことかもしれませんが。

子供は自分たちにとっても宝物ですが、社会にとっても宝物だと思います。宝物を宝物のままに育てることは難しいのですが、何とかやってみたい、今はそんな気持ちでいます。

(BGM:「生まれくる子供たちのために」オフコース)

積ん読のはいやだけど

MOT、イノベーションに興味があり、さらに知的財産マネジメントに興味があると、これらに関する書籍が出るととっても気になります。最近はAmazon.comが購入リストを参考におすすめ書籍を表示してくれますので、ついつい買いたい気分になってしまいます。特に、どちらの分野にしても興味のある人はある程度限定されてしまいますので、近所の本屋に行ってもいつも常備しているとは限らない、結構品揃えのいい本屋は通勤ルートから外れていてせいぜい2~3ヶ月に1回しか通えない、さらに、購読層が限定されていると本屋から姿を消すのも早い、等々あり、Amazon.comなどの書籍通販サイトで紹介されていると「今しかない」と焦って買ってしまうことも多々あります。こうやって買ってはみたものの時間がなくて読めない(俗にいう積ん読)本が10冊以上あります。

最近買った本は、新版なった「新・特許戦略ハンドブック」です。この本、知り合いの鮫島弁護士が編著者ですので、約7000円という高額にもかかわらず買ってみることにしました。総ページ数700ページというところからついつい尻込みしてしまい、1週間ほど積ん読状態です。とは言え、折角買ったんですから勿体ないので今週あたりから読み始める予定ではいます。

こんな積ん読状態になったのは、MOT社会人大学院に通い始めてからでしょうか。それまではMOTやイノベーション論に関する書籍に特段興味はなかったのですが、社会人大学院で学び始めたらすっかりはまってしまい、手当たり次第に購入する癖がついてしまいました。一時期、これでは小遣いの範囲を超えてしまうと思い、図書館を頼ろうとも思ったのですが、図書館にもMOTやイノベーション論に関する書籍の在庫がない、あっても古いものばかりなので半ば諦め、小遣いの範囲で何とかやりくりをしています。それでも月の書籍購入額が1万円を超えると辛いですね。ただ、元々書籍購入額はけちらないタチなので、仕方ないかと思っています。特許関係の書籍も上に書いた事情と大して変わらない事情を持っているので、以前から買いたい本は躊躇わずに買ってましたから。

今の悩みは、継続して1時間以上本を読める時間を確保するのが難しいことでしょうか。乗り換えが多くて本を開く余裕がない、家に帰ると子供が待っている、寝る時間も早い、これではどうやって本を読もうか考えますね。

技術経営と知的財産

MOT 知的財産と技術経営」という題名の本があります。この本についてはipippiで私がレビューを書いているので詳細(というほど長くありませんが)はこちらを参照していただくとして、一言で言えば知的財産しか分からない著者がいくら技術経営との関係を論じてもそもそも無理がある本だ、ということです。目次を見ると分かるように、技術経営らしい項目がほんの少ししか出てこないんですから。

しかし、翻って知的財産と技術経営との関係を考えると、なかなか接点が見つからない、というのも事実だと思います。一般論として特許戦略と技術戦略は経営戦略を支える重要なものであり、これら特許戦略、技術戦略、経営戦略の三位一体論が唱えられていることも間違いありません。以前、経営戦略と特許戦略との関係については覚え書きを乱雑に書いておきましたが、技術経営と知的財産との関係についてはあまり触れずにいました。

どうして接点が見つからないと考えるかというと、本来知的財産は技術経営に対して従属的であるかあるいは技術経営に与える影響は限定的なものであり、知的財産ありきで考えると重要な問題を生じるように思うからです(この議論についてはMOTの修了研究に書きましたので、ご覧になりたい方はお申し出下さい)。根本的に、知的財産はビジネスを行う上でビジネスの自由度なり展開力を高める方向に働くべきであり、知的財産を活用することがビジネスの目的になるのは本末転倒であるように思うのです。ライセンスビジネスは時に巨万の富を得ることがありますが、それは特許制度が本来予定している特許の活用と異なるように思います。特許は技術のアイデアから生まれるものであり、技術のアイデアを形にする過程でそのアイデアを保護し、結果としてビジネスを花開かせるものであるべきです。産業の発展に寄与する発明の活用とはかくあるべきです。

ただ、そんなことを言っても技術経営と知的財産とは極めて近い位置にあるのも事実です。知的財産を無視して技術経営を円滑に行うことは難しいだろうと思います。では、どのあたりに接点があるのでしょうか。

第一に、知的財産は技術開発の将来像を占う上で重要な情報を与えてくれます。単に今後製造する製品に対するクリアランス(第三者特許調査)を欠くとその後の製品開発に重大な影響を与えるというマイナスな問題以上に、知的財産はその商品に関する技術開発の道程(ロードマップというと大げさかもしれませんが)を示唆してくれます。特許マップを作成することが重要になります。

第二に、技術開発の過程において適切に知的財産を保護することが要求されます。つまり、技術開発の各ステージに知的財産取得のステップを取り入れる必要があります。ステージゲート法を取る場合には各ステージ毎に知的財産取得のステップを考えるべきです。加えて、ステージの判断の際に知的財産の要素を含めると判断が適切に行える可能性が出てきます。

第三に、知的財産を取得するか否かの判断をする際に、その商品に係るビジネスがどのような性質を持つかを考慮すべきです。これについては多種多様な判断材料があるのでここでは列記するに止めますが、例えばその商品が国際基準に関わるものであれば国際基準において必須特許と認められる特許をできるだけ多くの国で取得すべく権利取得手続を取るべきです。国際基準に関わるものでなくても、多くの企業が採用すると考えられる技術については特許取得を積極的に進め、これを広くライセンスすることでプラットフォームリーダーシップを取ることができるかもしれません。一方、商品特有のfeatureに関するものであれば堅固な特許網を構築し、他者の参入を徹底的に阻止すべきです。

第四に、当該製品が商品ライフサイクルのどの時期に当たるかを考慮して知的財産の取得戦略を考慮すべきです。これについては日本知財学会で2回ほど発表しましたので、詳細はそちらをご覧下さい。例えば、黎明期であれば自社がドミナント・デザインを獲得すべく自社ドミナント・デザインに関する権利取得を旺盛に行うべきです。一方、衰退期に至った場合は細部のfeatureに関する権利取得、あるいは意匠出願等を積極的に行うべきです。

…とまあ思いつくままに書いてみましたが、こんなことが前述の本に書いてあれば満点評価だったんですがね。

秋よ来い

秋を身近に感じるのはどういったきっかけでしょうか。人それぞれだと思いますが、自分は晩秋とも言える11月になって段々と空気の寒さが身にしみ、何となく空が透明に思えるようになると秋をしみじみと感じるようになります。

元々秋は好きな季節です。食欲の秋と言うだけでなく(笑)爽やかで清々しい空気に触れていると気持ちが引き締まる思いがします。もうすぐ寒い寒い冬が来ると思うとちょっとだけ憂鬱になりますが…。

秋の風景というと真っ先に思い出すのが神宮外苑の黄葉した銀杏並木です。大学がそんなに遠いところではなく、また、車でも始終行き来していたこともあり、結構出かけていた記憶があります。コマーシャルでも使うくらいの場所ですからね。デートに使ったか…ま、そんなことはいいでしょう(汗)。次に思い出すのが学園祭の風景ですね。高校が体育の日、大学が文化の日に学園祭をしていましたから、まさに秋=学園祭です。高校3年生の時は、知り合いがいる高校の学園祭のはしごをしてみんなに笑われました(^^ゞ。確かにそんな話、聞いたことないですね。

秋になると我が家では秋刀魚が食卓に並ぶことが多いです。安くてうまくて手軽に調理できて、まさに秋の食卓の王者だと思います。次は柿ですかねぇ。秋は食べ物が旬を迎えるものが多いので、どうしても食欲旺盛になってしまいます。で、汗もかかずに運動不足になるのでウエストに響く、と(大汗)。

秋も後半になってきたので、残り半分を楽しもうと思っています。今年は秋の前半が温度が高くって夏の延長みたいな気持ちでいましたから。

デジカメの恩恵

デジカメが生まれて随分時間が経った気がしますが、台数において従来の銀塩式カメラを上回ったのはここ5年くらいのことです。しかし、既に日本において飽和市場化しているのは驚きです。技術の陳腐化が早いとは言え、これではR&D費の回収までには至りませんね。

そんな話題はさておき(と自分で振ってどうする)、デジカメの存在は写真という存在に対する自分のスタンスを大きく変えるものでした。それまでは、1枚1枚を大事に撮影する一方、その出来については現像、焼き付けをしないとわからないので無駄になる枚数もそれなりにありました。しかし、デジカメは1枚1枚あまり考えずに撮影しても後でいくらでも加工でき、また、気に入らなければ簡単に削除できるので撮影することに対する閾値をぐっと下げてくれました。その場で写真の出来具合がわかるというのは、当初経験したときに随分感動しました。おかげで、妻はわが子の写真を生誕から今に至るまで膨大な枚数(多分数千枚になっているでしょう)デジカメで撮影し、パソコンに保管しています。HDの容量に占める%もどんどん上がってきています。とは言え、HDも安いですから保管コストなんか考える必要もないんですが。

さらにデジカメの利点は、写真をデータとして扱えることにあります。つまり、上にも書きましたが、銀塩式カメラであればフィルムなりプリントをアルバムに保管する必要があり、多くなればなるほど嵩張っていたわけですが、デジタルデータであれば保管するのもごく小さいデータストレージで済み、しかも加工も容易です。プリントも自宅でできますしね。

そして、今や携帯電話がデジカメ代わりになっています。携帯電話を持ち歩かない日は滅多にないですから、いつもデジカメを持ち歩いているようなものですね。まだデジカメ機能付きの携帯電話を持っていない自分にとっては羨ましい限りです。特に、今の携帯電話は300万画素というかつての高級機種並みの機能を持っているので、全く問題ないですね。早く携帯電話をデジカメ機能付きのものに買い換えたいです(ボーナス出るかなぁ)。

きっと、わが子を含めた今の子供たちは、銀塩式カメラを骨董品でも見るような目で眺めるんでしょう。ま、カメラ買ってくれって言われても安くて済むからいいかぁ。

トリプルスタンダード?

自分は学位を3つもっています。理学士、法学士、そして技術経営修士です。ある時計算したところ、12年おきに大学(院)に通っていることが分かりました。親からも「あんたは勉強好きだねぇ」と褒められたのかあきれられたのか分からないようなことを言われました。最近、2つの学位を持つことが何かと勧められており、「ダブルスタンダード」という言われ方をされます。その言い方を踏襲すれば、自分はさながらトリプルスタンダードですね。自分でも良く学校ばかり行っていると思っています。

しかし、不思議なことに、「大学を出てから」云々という言い方をすると、青春時代に通った大学のことを指して言っていることが大半です。自分の意識の中では、大学=青春時代に過ごした大学という意味になっています。多分、それは不思議でもなんでもなく、4年間勉強だけに専念すれば良かったその時期が一番自分の印象の中に強く残っているんだと思います。一方、不思議なことに、勉強に集中してしかも専念したのは一番最近通った大学院、次が真ん中の大学、一番勉強しなかったのが青春時代の大学なのです。まあ、褒められたことではないですね。今考えれば、何で一番勉強できるはずの時期に勉強をせずに遊んでばかりいたのか、悔やむことばかりです。親から全額学費を出してもらっていて甘えていたのでしょう。

で、今の自分の仕事に一番役立っているのは、当たり前かもしれませんが一番最近卒業した大学(院)での勉強です。そのために眠い思いをしてまでも大学院に通ったのですから。誰かが、今の時代、大学で勉強した内容は10年程度しか通用しない、自分が学んだ知識が古くなったらまた大学に戻って勉強し直せばいい、それがこれからの時代だ、という話をしていました。現実に、自分はその時に必要と思う知識を仕入れに大学に通って勉強をしました。そして、その知識を仕事に利用することが(直接的ではないにしても)できました。そう考えると、結構先進的なことをしていたのかもしれません。本人にはそんなつもりはなく、その場その場で考えてただけですが。

これから、どんな知識が必要になるか分かりませんが、もう大学には行かないつもりでいます。いや、もう疲れましたって。夜学で睡眠時間を削るには年を取りすぎました(^^ゞ。

どっちつかずの自分

昨日は、日本弁理士会主催の、「2006年米国特許をめぐる動き」という研修会を受講してきました。最近、米国特許法の改正の動きがめまぐるしくあり、また、注目すべき最高裁判決(及び審理中の事件)があったので、是非受講しなければと思い、受講しました。内容は期待通りのもので、満足したのですが、ちょっと寂しかったのが、研修会場で知り合いの弁理士に誰も会わなかったことです。まあ、自分の交友範囲が狭いと言ってしまえばそれまでですが、それにしても知り合いの弁理士は弁理士登録後随分の時間が経って皆さん大先生になって実務から離れてしまったのかな、と思ってしまいました。

また、知財協でも同様の研修会「米国特許法改正ならびに米国特許判例の最新動向」が12月に開催されるのですが、社内で参加者を募っても現時点で1名しか応募がありません(私は行きますが、私以外で、という意味で)。会社として米国特許の重要性は骨身にしみているはずなのですが、皆代理人からの情報があればいいと思っているのか、非常に反応が悪いので心配してしまいます。

このように、自分は時々弁理士と企業知財部員との間で行ったり来たりを繰り返し、どちらにもそれぞれ不満を感じながら、かと言ってどちらにべったり所属することのない生活を続けています。コウモリは、鳥の仲間からは仲間はずれにされ、動物の仲間からも仲間はずれにされ、どっちにも属することができずに悲しんでいるという例えがありますが、ちょうど自分もコウモリのように弁理士仲間と心から楽しむこともできず、企業知財部員として企業に奉仕することもできず、どっちつかずの生活をしています。

考えてみると、エンジニア経験の後にすぐに特許事務所に勤務し、特許事務所で弁理士登録をした後にひょんなことから企業知的財産部に就職し、今となっては企業知財部に所属する年数の方が長くなってしまいました。企業知的財産部で弁理士登録しているメリットは、それこそ企業にいるのが嫌になったらさっさと辞めて特許事務所にいつでも転職できるという切符を持っていることです。知人曰く、「鈴木さんにはいつでも飛び立てる羽があるからね」だそうです。そんな立場に立っているからこそ、なんとなく双方の立場を冷静に見ることができるのかもしれません。一方、双方の立場を距離を隔てて見ることが冷淡に映ることがあるかもしれません。仕事に真剣になっていないと。そんなつもりはないんですけどね。

世の中の企業知的財産部に所属する弁理士が全てこんな悩みを持っているわけではないでしょう。ただ、かつて特許事務所に所属して企業知的財産部に就職した人は、なんだかんだ言ってまた特許事務所に戻っているケースが多いです。弁理士は独立志向なんですね。

古い習慣と新しい習慣

新しいことが習慣になってしまうと、以前どうやっていたかをついつい忘れがちです。

例えば、今はペットボトルでお茶を冷やして飲むのが習慣になっていますが、それまでは自分で急須にお湯をついで温かいお茶をマイカップで飲んでいたわけです。今でもそうやって自分のお茶を飲んでいる人がいますが、自分の場合、根がずぼらなせいか道具はあってもペットボトル入りのお茶が便利なのでどうしてもペットボトルのお茶に頼ってしまいます。そう言えば、道具で入れていた後は缶入りのお茶を冷やして飲んでいたのですね。缶入り飲料も途中で栓が閉められないので使う頻度は随分と減りました。

仕事のやり方もここ20年くらいで随分と変わったと思います。最大の要因はPCの普及、次いでネットワークの普及でしょうか。20年以上前だと、誰かに何かを公的に伝えるには手書きの文章を作成し、これを一部控えとしてコピーで保管した上で原本を相手先に送付していたと思います。今とスピードは格段に遅いばかりでなく、文書は手書き状態で保管しますからファイルは嵩張るし、使い回しも簡単ではなかったです。そうこうしているうちにPCがオフィスに入るようになり、ワープロ、表計算等で使用されることで文書作成のスピードは格段に向上し、しかもデータ保管も簡単ですから後日流用することも容易になりました。これで、オフィスに業務補助要員を多数抱える必要がなくなったわけです。次いで、ネットワークの普及により一々相手方に電話をしてFAXして、という作業をすることなく文章を相手先に伝えることができるようになりました。おかげで、極端なことを言えば1日中座ったままでもそこそこの仕事はできるようになりました。LANでつながっている限り、相手との情報提供は瞬時に行え、かつ会議、打ち合わせを経ることなく仕事ができている場合が少なくありません。

しかし、新しい習慣を導入することにより、古い習慣にあった良さが失われてしまうこともあります。例えば、お茶というのはお湯から入れることで独特の甘さ、旨さが出てくるとも考えられます。ペットボトル入りのお茶は、色々とメーカーが努力しているとは言え、入れ立てのうまいお茶には叶わないなぁ、と考えさせられます。

同じように、PCを前にしてメールだけで仕事を済ませてしまうと、元々人と人とが直接触れ合って成立してたコミュニケーションがぎくしゃくしてしまうことも考えられます。メールを送っておけば大丈夫だろう、という思いこみが思わぬ落とし穴に陥ってしまうことも考えられます。コミュニケーションが希薄な社会は決して人間にとって過ごしやすい世界ではないと思っています。このあたり、古さと新しさとでどう折り合いを付けるかが問題ですね。

職務発明日立製作所事件に思う(続き)

先日ご案内した職務発明日立製作所事件につき、最高裁判所の判決が出ました。これによると、職務発明の対価を判断する上での外国における特許を受ける権利の取り扱いについてのみ判断がされていました。日立製作所のプレスリリースからすると、上告人である日立製作所は無償包括クロスライセンスの問題については上告理由に含めたものの、最高裁はそれを取り上げなかったようです。う~ん、個人的には先日書いたように無償包括クロスライセンスについても最高裁で判断して欲しかったですねぇ。企業にとって外国における特許を受ける権利の問題も重要ですが、無償包括クロスライセンスの問題も重要ですから。ちょっと残念。

全くマスコミってのは(その3)

こんな記事がありました。

「先願主義への統一のみならず・・・世界の特許制度はどう変わるのか?」

この記事を書いた人、以前に職務発明報奨制度について私と私の上司にインタビューをした人です(このブログでもご紹介しましたね)。この件については経団連の知的財産委員会で特許庁の国際課の担当者から直接話を聞く機会があって、内容をそれなりに理解していたつもりでしたが、どうも記事の内容はそれと違っています。

まず、実体特許法条約の主要部分について合意を得たと言いますが、正確には議長案について各国が同意し、次回11月の日本での会合においてこの議長案に基づいて詳細な条約案が検討されることになったとのこと。正式な説明はここにあります。基本的な合意はできているので条約締結はできるだろうが現時点では条約締結がいつになるかは不明とのことでした(記事にある2007年中というのはちょっと楽観的かもしれません)。

次に、特許の新規性・進歩性をめぐる基準の統一については、新規性判断の基礎となる分権等は何であるかの合意は得られたものの、進歩性の具体的判断については全然決まっていないとのこと。但し、自己衝突についての見解は合意したようです。企業としては特許の新規性・進歩性をめぐる基準の統一がされれば知財管理上も非常に作業が合理的になって良いんですが、進歩性の研究は今年度AIPPIが特許庁からの調査委託を受けてやるものの、これを実体特許法条約の議論に提示できれば幸い、といった程度の認識のようです。

このように、マスコミは時に無用な混乱を生む記事を公にすることがあります。このブログでも何度かこの件については紹介してきました。こうなる理由についても色々と述べてきましたが、要は記者の思いこみと不勉強に尽きると思います。最初この記事を見たとき、「米国においては個人発明家の猛反対により先願主義導入は難しい」と書いてありましたが、以前はそのような議論があったものの、ここ1年の米国特許法改正の作業において個人発明家の団体もさすがに先願主義の優位性を理解したせいか、公的に反対する態度を示していません。この点については指摘があったせいか、現在の記事では削除されています。継続的に勉強していないとちょっとしたところで馬脚を現してしまうのですね。マスコミの記者さんも自身の記事が社会に与える影響を十分理解して自制をして欲しいと思っています。

幼稚園の運動会に思う

この2~3週間ほどの土日、近所の幼稚園の運動会が立て続けにあったので、幼稚園の雰囲気を知ることを兼ねて見学してきました。最近は幼稚園によっては定員割れをしているところもあるようで、未就園児を今のうちにつなぎ止めるために未就園児向けの競技をどこでも用意していました。と言っても単なる自由にかけっこをさせる程度の競技ですけど。

あちこちの幼稚園の運動会を見てみて改めて思い知らされたのが、子供の性格や個性は非常に多種多様であり、また、教育をする側の幼稚園の姿勢も多種多様である、と言うことです。まあ、当たり前と言えば当たり前のことなんですが。幼稚園によっては入場、退場をホイッスルによって軍隊さながらに規律正しく行うところもあるし、それとは反対に保母さんが先頭に立ってはいるものの子供たちはわらわらとその後ろについてくるだけのところもあります。お遊戯が終わったら先生と園児とで「ありがとうございました」と礼儀正しく言っているところもあるし、注意事項をマイクでずっと言っているところもありました。

普段、自分の子供しか見ていないと子供とはこういうものか、という潜入観念ができてしまいますが、色々な子供を見ていると自分の考えが狭いことに気付かされます。始終活発に動いている子もいれば親にべったりしている子もいるし、おとなしくしている子もいます。ある意味、幼稚園に行くことで子供は色んな刺激を受け、遊びの中で社会生活に必要なことを学んでいくんだろうと思います。

自分の子供が幼稚園に行くのはまだ先ですが、幼稚園に行き始めたらその子の生活は親べったりではなく幼稚園で親と離れて自分だけで切り開くべきところが出てくるのだなぁ、と思うと、どんどん子供は成長して親から遠い存在になってしまうわけです。ちょっと寂しい気持ちもしますが、そうやって自分たちも育ってきたと思うと誰もが通る道なのだ、と納得させられます。

職務発明日立製作所事件に思う

今日も重たい話を。

職務発明訴訟で今のところ最高裁まで争った数少ない案件である(オリンパス、日立金属、日立製作所の3件ですね)元日立製作所 米澤氏の控訴審が結審し、来週火曜日に判決言い渡しがされるようです(記事)。結審まで口頭弁論が開催されなかったので、第2審である東京高裁の判決内容が維持される、とのことです。

この件、判決内容に自分ところの会社が関係していることもあって興味深くその進み具合をウォッチングしてました。この事件、実務的に注目すべき点が2つほどあります。① 外国における特許を受ける権利の承継はどこの国の法律で判断すべきか、② 無償包括クロスライセンスにおいて特許法35条4項に言う「使用者等が受けるべき利益の額」は何であるか、です。

①については、自分ところの会社は対象外国特許があればその国の売上も報奨金算定の際に考慮しているので問題はないのですが、②については悩ましいところがあります。第2審では、クロスライセンスを締結することにより自社が支払いを免れた実施料をベースに考慮すべきとなっており、この実施料は、単純にライセンスを締結した会社の実施料と同等になっています。通常、その特許だけについてライセンスを受ける場合、その発明が重要であればあるほど実施料率は高くなります。第2審で認定された実施料率はなんと10%です。この10%をベースに実施報奨金を算定されたのでは、無償包括クロスライセンスを締結した意味がありません。個別に重要特許毎のライセンスを締結したほうが合理的金額になります。各企業の特許ポジションは異なるわけで、それがあればこそ無償包括クロスライセンスを締結できたり、単独でライセンスを受ける場合が出てくるわけです。これを一律に考えられたのでは企業はたまったものではありません。

来週火曜日に判決が出るので期待をしたいところですが、実質的な審理が無く門前払い判決だったらがっかりです。

自作PCは楽しい!?

最近、思い出したようにパソコンへの興味が復活してきました。一番の理由はWindows Vistaが来年初頭にはリリースされることと、IntelがCore 2 Duoという新しいMPUを発売したことです。この2つが組み合わさるとどんなPCになるんだろう、とわくわくしてしまいます。

Windows Vistaがリリースされることが明らかになったので、家にある自作PCも少しアップグレードを図ることにしました。マザーボードは明らかに現在の規格から取り残された古いものなので、ハードウェアはメモリを増設する程度で済ませ、OSを今の2000からWindows XPにすることにしました。せめて、これだけのアップグレードをしておけば、あと寿命が2~3年は延びるでしょう。最近はMicrosoftが古いOSに対してどちらかというと冷たい(古いOSに対するパッチモジュールの提供をさっさと止めてしまっている)ので、現時点での最新版OSにしておかないと怖いのです。

この自作PC、5年前に作ったときは12~3万円かけて作りましたが、その後細かい部品交換などで結構金がかかっています。モニタをCRTから液晶にしたり(その頃で7万円)、キーボード、マウスが壊れたのでその交換をしたり、CD-RWドライブをDVD-RWドライブにしたり(これは最近なので7000円程度で済みました)、結構手を掛けています。とは言え、自作PCマニアからすれば金をかけていない方だと言われそうですが。元々メールとウェブとオフィスソフトが動けばいいので、スペックの高いPCが欲しいわけではないですから、高性能PCがどうしても欲しいという気持ちにはなりません。部品交換で余ったパーツがごろごろしている人から比べればまだまだかもしれません。

ただ、自作PCというのは、ある意味で大人のおもちゃいじりという気がします。色んなパーツを買ってきて如何に安く、あるいは如何に高性能な自分好みのPCを作るか、という点であくせくするわけです。時には自作することで市販のPCよりも高価になることだってあります。それでも自作PCが止められないのは、自分だけのPCを自分の手で組み上げることの喜びに代えられるものがないからでしょう。自作PC派はPC所有者の中で極めて少数派だと思いますが、根強い人気があって雑誌も取り上げるのはそれだけのニーズがあるからなのだと思います。ああ、自分も金さえあれば…。

著作権に思う

つい最近の新聞記事によると、著作権切れとなる魔の53年作品について地裁レベルで保護期間70年への延長を否定する判決が2つ(記事1記事2)出たようです。もう少し詳しく言うと、通常映画の著作権は公開後50年だったのですが、著作権法改正により2004年1月1日に保護期間が残存する作品については保護期間を70年に延長することになりました。1953年のうちに公開された映画作品については、保護期間は一律その年の末日に切れますから、厳密に言うと2003年12月31日いっぱい著作権により保護されています。さて、12月31日の最後の時間は翌年の1月1日の午前12時と全く同じ時間であり連続して考えるべきである、従って、53年に公開された映画作品は保護期間の70年への延長措置の恩恵を受ける、と言うのが文化庁の公式見解でした。これに則って映画の著作権者が安値DVD業者を訴えたところ、裁判の判決ではいずれも2003年12月31日の最後の時間は翌年の1月1日の午前12時と同等に考えることはできず、従って、53年作品は2003年12月31日をもって保護期間が終了する、との考え方を示しました。

なんだか複雑な議論ですが、ここではそういった法律議論はさておき(面白いんですけどね)、著作権法は誰のためのものか、ということを簡単に考えてみたいと思っています。

そもそも、著作権法は著作権の創作者を守るべき性質を持っていたように思います。つまり、創作者が自信の精魂を傾けて作り上げた著作物を他人が安易に模倣することに対してこれを創作者の許可無く行ってはいけない、と言う法構成にしていると思っています。それが、時代が進むに従って、著作物自体が商業上の商品として十分成立するようになり、著作物の著作権自体が創作者の手を離れて著作権者(コンテンツホルダーといった方がわかりやすいですね)にとっての商業上の価値を持ってくるに従って、著作権法自体がコンテンツホルダーの利益を守るべきものとしての性格が強くなってきたように思います。保護期間の延長そのものは国際的調和の観点から行われた法改正ですが、結果としたらコンテンツホルダーの利益保護のためのものとも言えます。当然、創作者にとっても利益を得られる期間が長くなるわけですが、利益の大きさはコンテンツホルダーのほうが莫大に大きいです。

一方、全ての著作物はそれ以前にある公的に公開された作品(パブリックドメインと言いますね)をベースとしており、従って、安易な保護期間延長はパブリックドメインの利用を阻害して結果的に芸術の有益な発展を阻害するのだという議論が、オープンソフトウェア等の流れと軌を同一にして盛り上がってきています。この議論は、どちらかというと創作者寄りの議論のように思えます。というのは、著作物の自由な利用を歓迎するのは創作者の方が強く、コンテンツホルダーにしたら自身が保有する著作物を他人が自由に利用するのは制限したいと思うからです。

自分としては、かつてコンテンツホルダーの企業に勤務していたこともあり、どちらかというとコンテンツホルダー側の立場に対して理解を示しています。確かに、創作者とすれば著作権法の縛りを受けるよりもまずは自身の作品を公開し、できるだけ多くの人に利用して欲しいという希望があるのは理解できますが、創作物を多くの人に利用してもらうためにはそれなりの出資が必要であり、これを回収するための仕組みがどうしても必要になります。ネット社会において著作物の利用システムを構築するハードルは極めて低くなりましたが、だからといって出資が0で済むわけはありません。特に大規模な創作物になればなるほど関係者が増えてきますので、商業ベースに載せて費用回収するスキームをきちんと組まないといけません。

ただ、現在の大規模商業システムを全て是として受け入れるのにも抵抗があります。小規模であっても質の良い創作物が世間に受け入れられるような体制が必要だと理解しています。しかし、現時点ではうまい解決策が見つからないのも事実です。う~む。

イノベーションと特許に関する断片集

今日は少し重たい話を。

特許とイノベーションとの関係について詳細に研究しているわけではないので、文献等を的確に示すことはできませんが、思っていることを断片的に書いてみます。

イノベーション論の観点から、イノベーションの進化を特許出願(あるいは登録)件数で見ようとする試みがされています。また、特許とイノベーションとの関係を真っ向から取り上げている試みもあります。

前者の場合、イノベーションの結果として新たな特許出願が生まれるとの仮説に基づいてイノベーションの進化を定量的に図る指標として特許出願件数が使えないか、もし使えるとしたらイノベーションはどのように進化したかを探ろうというものです。ここで問題は、イノベーションと特許出願件数との間に定性的な関係があることは何となく納得できても、イノベーションと特許出願件数との間に定量的な関係があるか、については詳細に詰めないとわからない、ということです。新規な発明をしたのだから特許出願をすることは間違いありません。しかし、アバナシーが提唱するプロダクトイノベーションとプロセスイノベーションとを比較すると、経験則的に言えばプロダクトイノベーションのほうが一つのイノベーションから生まれる発明の数は多くなります。例えば、製造品そのものは多くの部品からなり、部品単位での発明あるいは組み合わせの発明が存在しうるのですが、生産方法そのものはそれほど多岐にわたって発明が生まれうるわけではなく、しかも、生産方法は特許出願すれば公開の対象となるので営業秘密(ノウハウ)として秘匿されることもあります。また、製品のライフサイクルで考えると、イノベーションが生まれにくいとされる成熟期であっても製品の差別化を考えて細部に係る発明が生まれることも経験則的に言えます(これも新しいイノベーションだと言えなくもないですが)。このあたり、イノベーション論にも知財実務にも詳しい人物が非常に少ないので詳細な研究がないように思います。

次に後者の場合、既に存在する登録済み特許とイノベーションとの関係を論じているように思います。本来、特許は新規な発明に対して与えられるわけですから、既存のものから何も奪わない、と考えるべきところです。しかし、行政庁の過誤により新規でない発明に特許が付与された、また、特許権を濫用した場合はイノベーションの進化に影響を与える可能性は否定できません。最近、ビジネスモデル特許についてこのような議論がされたことがあります。ビジネスモデル特許は各国特許庁にとっても新規なカテゴリーであったため、手持ちの資料が少なく、従ってソフトウェアの専門家からすれば既に公知と思われるような内容でも特許が付与されてしまった例があります。このような「質の悪い特許」はイノベーションを阻害するとの議論がありました。このような事態はある意味で過渡的な問題であり、特許制度そのものに対して否定的な見解を持つまでには至るべきではないと思われます。また、特許権の濫用という観点からは、独占禁止法の観点からブレーキをかけるべきで、これも特許制度そのものに対して否定的な見解を持つ理由にはなりません。上述したようにイノベーションと特許とは定性的とは言え密接な関係があると推測されますので、イノベーションを阻害しない特許制度の構築がここでは肝要と言えます。

本来はイノベーションと特許との関係について一定のモデル作りをしたいところです。それなりのモデルを作れれば、特許出願の適正件数を定量的に求めることができます。が、今まで成功した例はなさそうですので(私の単なる不勉強だけかもしれませんが)、なかなか難しそうです。

30代は大変な世代?!

近頃何かと話題になっている、職場のメンタルヘルス問題について、一番心に問題を抱えているのは30代だという記事がありました。この記事、及び記事の元となっているアンケート結果によると、はという質問でアンケートを取ったところ、企業の人事・労務担当者の回答として一番多かったのが30代であり、なんと60%もの数字に上った、というものです。

この記事にも書いてありますが、考えてみると私たち40代は80年代後半のバブル景気時にイケイケバンバン(あんまりいい言葉じゃないですね)だった時代と、90年代の「失われた10年」と言われるどん底不景気の時代を共に経験し、リストラを乗り越えて生き残ってきたわけです。一方、20代の人たちは(自分が見るところ)企業や職場に対する忠誠心は段々と希薄になり、企業なり職場は自己実現の場と見る世代のように思えます。これら20代及び40代の狭間で、30代の社員は苦しんでいるようです。確かに、30代の人たちはバブル景気を社会人として経験してはいませんし、就職活動の時期はどん底不景気で就職難だったし、大変な時期を過ごしてきたのだろうと思います。しかも、元々30代は家庭を持って職場との両立が大変でしょうし、近頃の職場は好景気で忙しくなっても筋肉質な体質を維持するとのかけ声で正社員は思ったほど増えず、残業続きになりがちです。

とは言え、40代の自分から見れば、40代だって勝ち組ばかりではなくて大変なんだよ、といいたい気持ちがあります。ちょうど中間管理職の立場に立たされ、上からの突き上げも厳しくなり、下からは模範的な行動を求められて一挙手一投足が監視されているような気持ちになります。30代の次に40代が心の病の最も多い年齢層であるという回答はその通りだ、と思ってしまいました。

…それにしても、職場のメンタルヘルス問題は深刻なんですね。自分の所属する部門は専門職が多く、他の部門との人的交流も少なくてデスクワークが長く続くせいか、メンタルに問題を抱える人が少なからずいるそうです。ストレスを感じないで済む職場はどこにもないわけで、結局の所ストレスにどのように対処するかが鍵となるようです。と言っても、簡単じゃないですよね、ストレスへの対処法を学んだところで実践するのは。自分は十二指腸潰瘍を2度経験してますので、ストレスが胃腸に来るタチのようです。気をつけないといけませんね。

理系人間と文系人間

非常に大雑把な分け方として、理系人間と文系人間というカテゴリーに分けてしまうことがあります。本当に理系人間と文系人間に二分できるのかどうか、よく分からないところが多いのですが、飲み会のネタ程度の話では結構盛り上がる話題です。

自分は大学を3つも卒業しており、それぞれ理系、文系、融合系(どっちでもないということ)の専攻科目でしたから、出身大学から考えると理系人間であり文系人間ということになります。しかし、世の中で理系人間なり文系人間なりカテゴライズする場合、その人の発想法で分けることが多いようです。つまり、理系人間は物事の真理を探究することに喜びを感じ、人間同士のふれあいにはあまり興味がない、文系人間はその真逆、ということのようです。ただ、理系の出身者が全員人間的触れ合いに疎いわけでないですし、考えるうちによく分からなくなってしまいます。

理科の学問に興味を持つ人を理系人間というならば、自分は随分昔から理系人間だったように思います。自分の住んでいた地方自治体では、小学校、中学校共に学校から理科が好きな子を数名選び、土曜日の午後に各地域の代表を集めて特別授業をしていました。自分はどうしても行きたいと思ったことはなかったのですが、なぜか小学校時代も中学校時代もこの代表に選ばれて特別授業を受けていました。一体いつから理科が好きになったかと問われると、記憶の遙か彼方にあって自分でもよく分かりません。

一方、妻は本人が言うには文系人間であり、理系人間である私の思考体系が良く理解できないことがあると言われます。考え方の違いは理系、文系に起因することばかりではないと思うのですが、何かというと「あなたは理系人間だから」と言われることがあります。確かに、妻は書道の道を選び、大学の専攻も国文学ですから、根っからの文系人間であると言えます。ただ、自分の選んだ道なり大学の専攻だけで発想が根本から違うことは考えにくいので、まあ、わかりやすく考えるとそう分けておくといいのかな、と思っています。

自分がMOTという文系・理系融合分野の専門職大学院に通ったこともあり、今現在の自分の考え方としては、最終的には理系の知識も文系の知識も両方持っていることが好ましいように思っています。発想法もしかり。単に理系人間、文系人間と分けていると自分の可能性を狭めるように感じています。

日本製と中国製

先日、高いのでネットオークションで買おうかとこのブログに書いていた英語教材を、思い切って購入しました。CD、DVD、絵本など諸々で50万円超(T^T)。まあ、子供に残せるものは少ないので、せめてものプレゼントと思って購入しました。教材を購入したところ、子供でも使えるような簡単なデザインのDVDプレーヤーが無料で添付されていました。かつてはDVDプレーヤーでも数万円していたわけですが、きっと(中国製でもあるし)1万円を切っているから無料添付してくれたんだろうなぁ、と思い、何となく隔世の感を深くしました。ま、プレステ2が出た段階でDVDプレーヤーの価格破壊は起こっていたわけで、今さら、という気もしますが。

しかし、この無料添付のDVDプレーヤー、なかなかの曲者です。最初につないだときはきれいなカラー画像が出てきてなるほど良くできていると思ったのですが、次につないだら荒れた白黒画像しか出てこない(汗)。これはケーブルのせいか、内部の接触不良だと思ったのですが、無料交換制度があるので早速新品に交換してもらうことにしました。そして、2台目のDVDプレーヤーを早速つないだら今度は大丈夫そう…だったのですが、次につないだら今度はDVDを読み込まずに「NO DISC」の表示が(汗)。そうこうしているうちに電源スイッチがいかれてしまったのか、電源が入らなくなりました。仕方なく、今度も無料交換制度で新しいDVDプレーヤーを請求中です。所詮中国製だから、と半ば諦め状態です。

昔、日本製品は安かろう悪かろうの評判があったそうです(戦後すぐくらいの時期)。それを、勤勉さが取り柄の日本人が製品管理に細心の努力をしてMade in Japanのブランドを全世界に確立したわけです。現時点で中国製はやはり安かろう悪かろうの評判を脱していない気がします。DVDプレーヤーなどは電化製品としたら大したコンポーネントの数もなく(全部部品は外部調達できると思います)、そんなに品質が悪くなりそうもないのですが、まだまだ品質管理の概念が中国全体に広まっているとは言えないようです。当然、大企業は生産部隊をどんどん中国に移管しており、そういった大企業の子会社であれば日本並みの品質管理を行っているわけです(よく見るとMade in Chinaの文字が結構あります)が、中国オリジンの会社であると全部が全部品質管理に自信を持ってはいなさそうです。ただ、中国の家電メーカーの中には過剰とも言えるアフターサービスをしている会社もあるとのことで、例えば、ちょっとでも不具合があればどこにお客様が住んでいようとも無料交換制度を採用しているとの話もあるので、そういったフロントランナーは既に消費者に徹底的に鍛えられているのでしょう。いずれ、中国製品も並の評価を受ける日が来るのだと思っています。

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